パニック障害で退職後のアルバイト生活と、当時の様子

「オハマのおはなし」12話は、いったん当時の生活を振り返ってみました。前に書いたアルバイトと、恋愛事情について書いていきます。

2つのアルバイトを掛け持ち、からの3つ目も

休みがちになってしまった、バイト先

自宅から歩いて通える大学時代からアルバイトをしていた焼き鳥屋さんで夕方から夜中の0:00くらいまで働きました。接客業は好きだったし、家族経営のお店でみなさんとっても私のことを心配してくれて、体調が悪いときやお店が暇な時は早退させてもらうこともできて負担を最低限にして働くことができました。

家にずっといると発作のことしか考えられなくなって頭の中でぐるぐるしてしまうので、ちょっとの時間でも働くことはお金を稼ぐことよりも病気を忘れるために必要なことでした。

ある時期、勤務中に急に予期不安に襲われて頓服薬を服用することがあることもありました。それから、予期不安がひどくなり、お店に行けない日々が続いてお店を休む日が増えてしまって、家に引きこもり気味になった時期がありました。心配して一緒に働いているスタッフから電話がかかってきても電話に出ることさえもできないことがありました。

私の性格上、休むことが増えることの罪悪感が耐えられず、お店の方に泣きながら病状を話したことがありました。50代の店長は当時、癌を患っていました。病は違くても同じく苦しみを分かち合える仲でした。

心と身体がついていかなくてつらくて泣いてる私に「急がないでゆっくりいこうよ!」と声をかけてくださり、当時の私はこの言葉にかなり救われました。店長は残念ながら亡くなってしまったのですが、この言葉は私の中でずっとあって今でも感謝の気持ちでいっぱいです。

デイサービスでのアルバイト

この頃は、焼き鳥屋さんと大学時代から働いていた高齢者のデイサービスのバイトもかけもちしていました。

デイサービスにくる高齢者の方々は介護度が軽い方がほとんどだったので、介助することはほとんどなかったし、むしろ私より元気な方が多かったです。笑 一緒に体操して散歩しながら太陽を浴びたり、私にもかなりいいリハビリになっていました。

ただ、昼食をみなさんで食べる時間だけがつらかったです。胃の調子の悪かったので、ごはんを1人前食べることができなかったのです。利用者さんたちと一緒にごはんを食べるので残すわけにもいかず、この時間は私には試練の時間となりました。この時の対策として、スタッフに話をしてごはんをかなり少なめにしてもらって調整していました。

週1から始めた整骨院勤務

しばらく、焼き鳥屋さんとデイサービスのかけもちの生活が続きました。ただ、焼き鳥屋さんで働いているとどうしても夜型の生活になってしまい自分的に自律神経のバランスが崩れると思ったので、転職先を探し始めました。

ちょうどその頃、知人から「整骨院の受付で働いてみないか?」と声をかけていただき、週1回程度から働きはじめることになりました。初めての整骨院での仕事では覚えることがたくさんあり、自然と病気のことも忘れる時間が増えました。そこからお世話になった焼き鳥屋さんを辞めることにして、整骨院とデイサービスの2つを続けていくことに決めました。

私の性格上、人のために働きたい私にとってはとても楽しい仕事でした。朝の8時半から12時までの午前中のシフトと、15時から19時半までのシフト制で働きました。この頃は1日通して働けるようにもなりました。頓服薬の回数も減っていました。でも、お守りとして薬はかばんに入れておきました。

病気を忘れて無心で働くこともでき、たまに自律神経を整える治療法をして頂いたりしました。その治療法は、「レインボー療法」という治療法で氣の流れを調節したり、カラーテープで整えたりしてもらいました。この影響でツボや東洋医学に、より興味がわくきっかけにもなりました。

自分で東洋医学の本も何冊も購入してツボについての勉強をしたりもしました。

ただ、症状の重い患者さんを対応したりすると、どうしてもその「氣」を共有してしまって辛くなってしまうこともしばしばあったり、ここにいたらまた体調を崩すと思い、働きはじめて1年を過ぎた頃から転職先を考えるようになりました。1年経った頃は1日通して働く日も多かったし、週5回勤務以上でも働けるようになっていました。眠剤の薬は必要なくなったので服用を先生と相談してやめました。※お薬をやめる時はかならず主治医と相談してからやめてくださいね。

この当時の恋愛事情と、私の様子

この間の私の恋愛事情ですが…2人お付き合いする方がいました。どちらにもお付き合いする前に病気のことは話しました。そこを理解してもらえないと、付き合うのは難しいと思っていたので素直に話しました。2人とも病気のことをクリアしてくれたようで、お付き合いすることができました。運良く、2人とも車を持っていたので、出かける時は車移動ができました。

ただ、2人に通院していることと、薬を服用をしていることは伝えていましたが、「こんな薬を飲んでます。」と言ったことはなかったし、病院に一緒に来てもらうことも1度もありませんでした。

今思い返すと、私は男の人に依存している部分がありました。基本的にさみしがり屋の性格だったので、彼氏がいればどこか安心していたし、別れて1人のときでも誰かしらと連絡をとっていた記憶があります。

整骨院で働くようになってからは、昼間の短時間の電車なら乗れることもできるようになっていたので、友人には事情を話して会う時は昼間にしてもらって電車も短時間で行ける距離のところで会うようにしたり、夜の地下鉄に乗る時は誰かに一緒に付き添ってもらうようにしたりしました。

ただ、電車には乗れるようになっても、美容室に行くのが怖くなったのにはびっくりしました。同じところにずっと座っていて動けないのがつらかったのです。自宅のそばで友人が美容室に勤めていたので、そこに共通の友人と一緒に行って話をすることで気を紛らわして行くことができました。

私の病状の1つとして、じっとしていると「ここで発作が起きたらどうしよう…」と頭の中でぐるぐるしてしまうのです。だからなるべく考えないように気を紛らわすために、スマホをいじったり、無駄に話しまくったりしていました。

美容室もつらい場合は自分で髪の毛を染めることもできるし、カットだけなら短時間で終わるので、慣れるまでは自分の心と体調と相談しながら無理せず、少しずつ行動範囲を広げていくことが大事だと思います。ただ、発作が起きてしまっても、しんどくなっても自分を責める必要はありません。私は発作が起きると、「どうして?」となってしまうのですが、その発作もすべて受けて止めることも必要です。

発作が起きてしまうと、その場所に行きたくなくなるのは当たり前です。それを自分が悪いからと責めると余計につらくなり、悪循環になってしまいます。どん底にいた当時の私にこの言葉を伝えて、伝わるか自信はありません。だって当時の自分は「つらいくて苦しい!」しかないですから。

でも、必ず長いトンネルから抜けるのです。だから「大丈夫だよ。あなたは悪くないよ。」って背中をさすってあげたいなと思います。