パニック障害の私が母に打ち明けた心境と、友人からの傷つく言葉

傷付く言葉

オハマのお話第19話は、初めて母に話した心の声と、仲の良い友人から受けた傷つく言葉についてです。

前回のあらすじ
10年ぶりに会った高校時代の友人たち。そこでのちに夫となる男性と再開。福島→北海道と、パニック障害の影響で東京生活から田舎暮しを決めたタイミングでした。

しかし何度も会ううちに突然の告白。どうしよう。
田舎に移住を決断したタイミングでの夫との出会い

パニック障害を隠すことはしていなかったけど

オハマ
今回は友人であった彼に告白をされ、福島に移住をする直前のお話です。

私は自分の病気のことを友人にも病気のことは包み隠さず正直に話していました。隠す方もいると思いますが、私は電車に乗れなかったので、友人にも職場にも話していました。友人たちは、私の地元まで友人が会いに来てくれたり、少しの時間なら電車に乗れたので、その距離で待ち合わせをすることも多かったです。

理解してくれる職場の方や友人がいたことはとてもありがたかったと思います。

出かける時は夜の地下鉄には乗ることを避けました。どうしても大きな発作のことがフラッシュバックしてしまうので、乗る時は昼間限定にして、地下鉄も避けていました。どうしても乗る時は頓服薬を服用したりと、完全装備をして出かけていました。ただ、1日たりとも病気のことは忘れないし、「パニック障害の私」が当たり前になっていました。

この病気を患っていても、私が病気を患っていることは初対面の人はほとんどわからないと思います。見た目ではわからない病気ですし、人と接するのは好きなので明るく話すし、人前でつらいとか弱音をはくことはありませんでした。

初めて母に向けた私の弱音

1福島の祖父母に母と会いに行った時に、帰りの新幹線と電車がきつくて発作が起きるか起きないかのギリギリラインがずっと続きました。でも、具合が悪いというと、発作が起きてしまいそうだったので、隣にいた母にはそのことは伝えずに雑誌を読んで気を紛らわしたり、とにかく必死でした。

やっとの思いで帰宅し、限界がきてしまった私は、母にボロボロと泣きながら「もう辛い…」と泣いたことがありました。はじめて母の前で病気のことで泣きました。今まで誰にも弱音を吐いたこともなかったし、誰かを責めたこともありませんでした。

私は、なぜか家族の前で泣くことに抵抗があり、あまり家族の前で泣いたことがありませんでした。母は私の泣く姿を見てびっくりしたと思います。

母も私を出産した後に自律神経を崩した期間があり、同じように動悸や過呼吸になったことがあり、辛さもわかってくれるので一緒に泣いていました。「お母さんも治ったから必ず治るよ」と言ってくれました。

その時の光景は今でも忘れられないし、母へ「身体が弱くてごめんね。」という気持ちがこみ上げました。私自身も病気を受け入れたとはいえ、やっぱり普通の生活をしたかった。発作への不安からいい加減に解消されたい。という気持ちに限界がきていたのだと思います。

幼なじみから言われた一言に傷つく

そして、この頃、地元の友人3人で仲がよかったのですが、3人でごはんを食べて色々と話をしていたときに、友人の1人が私に対して、「オハマちゃんは病気を武器にしているよね」とさらっと言われました。

友人は私の何を感じてそんな発言をしたのか、未だにわからないのですが、当時の私は怒りとショックで言葉を失いました。こんなに辛いのに、それを武器にしていると言われて、「それなら変わってくれよ!」と言い返したかったのですが、穏便に済ませたい私はその場は反論しなかったです。

このことがきっかけでその友人と距離を置くようになってしまいましたが、今なら彼女がいうこともわかります。知らずしらずのうちに私は「病気の私」というレッテルを貼っていたのです。

でも、当時の私にはそんなことを思う余裕すらなく、ただただ悲しかったです。