「オハマのおはなし」第20話は、北海道移住の前に祖父母の暮らす「福島県」へ期間限定移住をするお話です!
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交際を決断。その理由とは
当時の私は恋愛するにあたって、「私の病気を理解してくれる」ということはとても重要でした。電車に乗ることができないので、移動は何かとめんどうなことが起きるし、いつ具合が悪くなるかわからないので、理解してもらえることを最優先にしていました。
夫は私が病気のことをカミングアウトする前に病気のことに気づいてくれて、これにはかなり驚きました。そして負担をかけないように動いてくれたことが大きかったです。そして何より、ストレートに愛情表現してくれました。とても嬉しかったこと今でも思い出します。
私は電車に乗れないのですが、都内での生活ということもあり、夫は基本的にバイク移動だったので、デートはいつもバイク移動。
これも私にとってはストレスフリーになっていました。私が遠出できないといえば、車を手配してくれて遠くまで遊びに連れてってくれたりしました。
一緒に過ごしていくうちに、直感的に「この人と一緒にいれば病気が治る!」と思いました。当時の私はまだまだ依存体質のだったので、すでに夫に依存していたと思います。
結局祖父母のいる福島県へ移住
夫と付き合いはじめて2ヶ月経った頃、私は予定通り、祖父母がいる福島へと行くことになりました。
初めての遠距離恋愛がはじまります。
福島へ行く時は荷物もたくさんあり、夫が車で送ってくれました。ただ、遠距離恋愛の考えの甘さと、環境の変化に私が対応できなくなることを目の当たりにすることになります。
移住してすぐ、慣れない土地でパニック発作
無事に福島まで送ってくれて、夫が東京へ帰る時。私は大きなパニック発作が起きました。起きたというか起こしました。という方が正しいかもしれません。これは今だからわかることです。
私の福島への歓迎会として親戚たちとみんなで昼食を食べていたのですが、どんどん呼吸ができなくなって過呼吸になり、しびれが出てしまいギブアップ。親戚のみんなは病名のことはわかっていてもどんな症状なのか知らなかったし、私も説明する余裕がなかったので、何が起こっているのかわからなかったと思います。
いつも持ち歩いている頓服薬(ソラナックス)を服用してもなかなか効かず苦しい時間が続きました。その日は休日だったので、休日診察をしてくれる病院を探して行きましたが…受付で断られてしまいました。
過去に「パニック障害」と病院に伝えると、なかなか診てくれないという経験をしたことを思い出しました。(パニック障害で救急車?久しぶりのパニック発作に落ち込む私)
受付で断られてしまったので、過呼吸が起きているので紙袋片手に発作がおさまることを待つことしかできない状態。私のパニック発作の症状に動悸もあるのですが、呼吸がしずらくなって溺れそうになってしまうのです。酸素を吸っても吸っても足りない気がして呼吸が浅くなり、速くなってしまいます。
夫と離れる寂しさと不安で涙は止まらず…すごい状態でした。苦しみながらも祖父母の家へ戻りずっと横になっていました。何時間か経ってやっと頓服薬が効いてきたのか?少し眠ることができました。夫は仕事があったので、心配しながらも東京へ帰宅しました。
祖父母は私の病気を理解はしていません。「何が起きているの?」という状況。食欲もぱったりとなくなってしまったので、その日は全く食事も喉を通らない状態になりました。
数日後、別の病院を探してみました
これから半年間福島で生活していくのに「このままではまずいな…」と思ったので、改めて病院を探しました。
福島の中でも田舎の地域だったので、病院の選択肢が少ない…!何件も予約の電話を入れても、予約が何ヶ月か先になる病院もありました。仕方ないので予約なしで診てもらえる病院を見つけました。ネットの口コミを見て病院を決める選択肢はなかったです。
私は車の免許がないので、病院に自力では行けないため、仕方ないのでタクシーや親戚に送迎してもらって病院へ行きました。
私が見つけた病院の待合室は患者さんでとても混んでいました。「混んでいる=人気」とは結びつかないということを体感するのです。
そう、この病院と私の相性が悪かったのです。
先生に身体の状態を話しをしている最中に、先生と一度も目は合わないという不思議な状況が続きました。別にパソコンにずっと向かっている訳ではないんです。ただ、向き合って話していても目が合わないのです。目が合わない状況のまま、酸素濃度も測っていただきましたが、数値に問題はなかったようです。
そしてびっくりすることが…!新しい薬を処方すると言われたので、新しい薬が怖いと話したら、先生がその薬をいきなり飲み込んだのです…これにはびっくりしました。びっくりというか、怖い!と直感的に思ってしまいました。
先生が突然飲んだ、新しい薬も処方されたのですが、薬を変更することがどうしても嫌だったので、今ままで飲んでいる薬のみ服用しました。
薬だけの治療では体調は悪くなる一方だとわかっていたので、祖父母が通院していた整体にいくことにしました。昔ながらの治療院で、おじいちゃん先生が丁寧に診てくれました。イメージ的には整体より、カイロプラティックに近かったです。
一円玉を使った不思議な治療法もあったり、一般の人からするとその治療法本当?と思われてしまうかもしれませんが、私は効果があればなんでも大丈夫なので、不思議な治療法もすんなり受け入れることができたし、私には合っていたようです。
この治療もあってか、大きな発作は起こることはなく、叔父が経営している居酒屋の手伝いをしながらの福島生活が始まりました。
生活環境でパニック障害への理解者が少ないのはしんどい
体調に不安があっても、それを理解してくれる人が近くにいないことは結構しんどかったです。祖父母に心配かけないように無理やり食事を食べたし、寝れなくても祖父母とはきちんと朝食をとるようにしたり、かなり気を張った生活をしていたと思います。
そんな中でも、体調を崩していた祖父が一番体調を理解してくれて、2人で夕飯を食べていた時に、「ゆっくり治していこうね」って言ってくれた言葉は今でも忘れられません。
会いに来てくれた夫と急展開
そんな生活が1ヶ月ほど続いた頃、夫が東京から会いにきてくれました。ただ、頑固な祖父。結婚する前の夫を家に泊めることはできない。と言われてしまいました(笑)。
東京からせっかく来てくれたのに泊まるところもなく、私も夫もショックを受け、このまま遠距離恋愛を続けることはできるのか?と思うきっかけとなりました。そこからはじめてちゃんと「結婚」というものを意識するようになりました。
祖父母は全く悪気はなく、私たちのことを想ってけじめをつけなさい。ということを教えてくれました。
それから夫と毎日電話で話し合って、まずは東京に帰ることを決めて一緒に住もうとなりました。
同棲をするのであれば、けじめとして28歳の私たちは「結婚すること」を決めました。祖父が背中を押してくれて、付き合って3ヶ月での婚約となりました。まだ付き合って3ヶ月という短い交際期間だったので、私自身も家族も友人もみんなびっくりでした。
今思うと、約1ヶ月間、祖父母と一緒に暮らせたことは本当に幸せな時間だったし、祖父母と一緒にたくさん過ごすことができた日々はとてもいい思い出です。祖父母に改めて感謝しています。