オハマのおはなし第24話は「妊娠」ついてのお話です。
断薬もせず、妊娠が発覚
妊娠検査薬で私の妊娠がわかりました。薬は毎日服用していましたが(毎朝ジェイゾロフトとメイラックス)大きなパニック発作も起きず、体調は維持できていた矢先のこと。検査薬で妊娠がわかった時はとても嬉しかったのですが、同時に不安の波が押し寄せてきました。
翌日、薬の影響が怖かったので、すぐに主治医に連絡をして服用していたすべても薬の断薬を決めました。
先生はやめるのを反対している様子でしたが、私は薬への恐怖心が大きく、妊娠がわかってすぐに薬の服用をやめました。
当時の私は離脱症状がこんなに辛くこわいものだとは全く知りませんでした。それから薬の怖さを知ることになります…!
断薬を決断し、産婦人科へ
パニック障害のこともあったので、病院は総合病院を探しました。
精神科と産科がある病院が前提。実は引越しも決まっていて、病院探しも一苦労でした。ようやく総合病院を見つけ、はじめての検診へ。夫と夫のお母さんが一緒に来てくれました。
はじめて検診をしてくれたのは、若い女医さん。なんと香水ムンムン。その時点で私の中では信頼度ゼロ。まだつわりはないけれど、つわりの妊婦さんにとっては地獄です。私が服用していた薬の話をして断薬をしたことを話すと席を外す先生。
裏でおエライ先生にどうやら相談しているのですが、会話が私にまる聞こえだったのです。
先生たちの会話「え?こんな長く飲んでた薬を突然やめたわけ?」
私は、そんな大変なことをしてしまったなんて思ってもいないわけで、さらに不安倍増。待っていてくれた夫とお母さんに無事にきちんと妊娠してました。と笑顔で言うことが出来ませんでした。
総合病院の精神科へ
それから、同じ総合病院の精神科を予約して診察へ。診察は別日だったので、そこまではタクシーで一人で行きました。
これまた曲者の女医さんでした…。総合病院だったので、待ち時間はとても長かったです。そして、呼ばれて診察室に入るなり、パソコンしか見ていない先生。私の顔も見ずに淡々と話をしてきました。
私はここでも信頼度がゼロとなってしまい、先生の言ってることが全く頭に入りません。薬の離脱症状が出始めて辛かったのに、この先生は信頼できない。どうしよう。と頭の中でさらに不安が巨大化しました。
その時、服用していた薬のリスクの話や、発作時の対処法の話があったのですが、ほとんど覚えていません。「あーどうしよう!」で頭がいっぱいになり不安しかありませんでした。
この2人の先生の対応から、この病院では産みたくない!と思い、すぐに病院を変えることにしました。そこは、以前私が心療内科でお世話になっていた産婦人科です。ここなら安心できる!と思っていました。
転院してから、「つわりと離脱症状」のダブルパンチが私を襲います。
私が体験した離脱症状(ジェイゾロフト・メイラックス)とつわり
「離脱症状」は私の場合は、手のしびれや歩くと瞬間移動のような感覚になったり、不安の波が強烈でとにかくベッドから起き上がれない日が続きました。
それでも産科にはいかなくちゃ!と気合いで通院。バスやタクシーを使って精神力だけで行きました。ただ、赤ちゃんの心拍がなかなか確認できず、さらに不安が倍増していました。
私は、「嘔吐恐怖症」のようなものもあって、とにかく吐くのがこわい。吐きたいのに吐けないのです。吐いたら楽になるのがわかってトイレに行ってもうまく出せない…離脱症状も辛かったけど、なによりつわりがきつかったです。1日がこんなにも長いのかと毎日思ってました。
つわりが出始めてからは、1日中ベッドの上にいて、時間が過ぎるのをただひたすらに待ちました。ごはんを作る気力すら沸かなかったので、家の隣にあるコンビニに行って食べられそうなものを買って食べていました。離脱症状の症状で、歩くたびに瞬間移動のような感覚になり、首を左右に振ったりすることができず、信号を渡ることが怖かったのでコンビニが隣にあって本当によかったです。
この頃、引っ越しの準備もしなくちゃいけないので、この頃の私は毎日が地獄でした。
結果は流産でした。
そして、運命の日。この日は夫に産科の受診についてきてもらいました。ここで赤ちゃんの心拍が確認できなければ、流産とわかる日だったからです。週数的には7週から8週の頃です。
結果は…私はエコーにうつるテレビを見て、あっ赤ちゃん動いていないとすぐにわかりました。なぜか私は冷静に受け止めていました。不安しかなかった1ヶ月から解放される…と不謹慎ながら思ってしまいました。
でも同時に「手術」という大きな壁にぶち当たることになるわけです。
夫婦で先生から説明を聞きました。私は涙も出ずに冷静に先生の話を聞きました。ここで、プツッと何かが切れてしまったら自分が壊れると思ったので、とにかくその糸が切れないようにするので精一杯でした。
横で話を聞く夫を見ると夫は放心状態。その時、私自身が自分のことしか考えていなかったことへの罪悪感しかありませんでした。私には赤ちゃんのことを考える余裕が全くありませんでした。
先生から、「初期の流産はお母さんに原因はありませんよ。」って言われても私は自分を責めることしかできなかったです。
淡々と手術の話が進んでいくことに現実感が増してきて、「私は手術なんて耐えられるのか?」また不安しかない状態。もう崖っぷちでした。赤ちゃんにはごめんね。の気持ちしかなかったけど、夫や家族にはなぜか謝れなかったです。
私のせいでごめんね。といってしまったら全部が壊れてしまいそうで怖かったのだと思います。そして、ごめんね。と言ってしまうことで、病気や薬のせいと認めてしまう気がして怖かったのです。必死にそうじゃないって自分に言い聞かせていました。
流産がわかってからの引越しは不思議でした。この頃のことは正直あまり覚えていません。赤ちゃんの心臓が動いていないのに、お腹は張る。そして気持ち悪い。不思議ですね。家族は友人に助けてもらって私はほとんど何もしないで引越しを終えました。私は手術を控えていたので、この頃の精神状態は極限にきていたと思います。
引っ越しが無事に終わり、夫は仕事がどうしても休めなかったので、手術は姉が一緒にいてくれました。はじめての点滴。はじめての注射。はじめての手術。はじめての麻酔。とにかくはじめて尽くし。
でも、ここでも泣いてしまったら身体も心も崩壊してしまいそうだったので、必死に看護士さんに話しかけてなぜか笑顔で大丈夫ですアピールをしていました。これも私の癖の一つでもあります。笑ってごまかしてしまうのです。
手術はあっという間に終わりました。あまり手術の内容は書かないでおきますね。不安をよそに麻酔で気持ち悪くなることもなく帰れました。帰りは夫のお母さんが迎えにきてくれて、姉も家に泊まってくれて夫と3人で過ごしました。
当時の記憶はあまりないのですが、流産の悲しさに浸るより、離脱症状がきつくて考える余裕さえない状況でした。当時、毎日赤ちゃんの様子がわかる日記帳に自分の体調も記録していたのですが、妊娠した喜びより不安の方が強く、毎日必死に闘っていたのだと今見ても泣けてきます。