「オハマのおはなし」第5話は、社会人2年目(23歳)アトピーが悪化しながらも、いい病院にめぐり逢ってアトピーが改善した頃、パニック発作が再発しまうお話です。
23歳の社会人2年目の2月。2度目の大きな発作が起きました。
20歳のころに診断された自律神経失調症。整体で進められた東洋医学療法により改善したのだが、今度は23歳で仕事のプレッシャー(?)により、持病のアトピーが悪化。
これもまた食事療法などの治療で克服。しかし…。
仕事環境
この頃、仕事では一人立ちしてすべての業務をすべて自分で行うようになりました。営業職を経験したことのある方なら分かりますよね。業績重視!毎月の営業では、成績が出なければみんなの前で絞られる。有料老人ホームの販売営業は普通の営業とはちょっと特殊です。
前回の記事では仕事内容にも触れましたが、有料老人ホームの販売営業なので、お客様は高齢者やそのご家族になります。大学時代に高齢者のデイサービスでアルバイトをしていたとはいえ、高齢者の方との関係を築いていくのはとても大変なことです。しかも、「終の住み家」の販売。金額も何千万円という金額。実際金銭感覚も狂います。
私は勉強はできる方ではなかったので、会社で仕事が終わった後は家で勉強をしたり、休みの日も担当のお客様からの電話対応。自分で要領が悪いとわかっていたので、その分朝早く仕事場に行く生活が続き、気の休まる時間はなかったと思います。営業職への配属は周りからの期待もすごかったです。その期待に応えるためにとにかく必死にむしゃらに働いていました。
この頃の考えられるストレス
とにかく完璧を求めてしまう私。自分は人より勉強もできないから周りについていけるようにずっと仕事のことが頭にいっぱいの私。「自分の時間」はほとんどない状態でした。
アトピー治療のために、食事療法もしていたので、外食もせず毎朝お弁当作りから朝がはじまり、実家に住んでいても除去料理を夕食に作る毎日。かゆみはすぐにおさまるわけではないので、夜寝れない日も多々ありました。
かゆみがひどい時は、保冷剤を幹部に当てて寝ていました。保冷剤だらけ。それくらいかゆくて寝れませんでした…!
身体に異変が現れはじめる
営業で外回り以外は、会社でパソコンの毎日。もともと肩こりが酷かったのですが、この頃の肩こりはひどくて、整体へ行っても首と肩のコリは酷いと言われることも多々ありました。肩こりからの偏頭痛もあって、鎮痛薬を服用しながら仕事をしていました。
そして、元々胃腸が弱かった私の身体は、まずは胃にダイレクトにきました。胃の痛みで寝れずに病院へ行ってから会社へ行くことも。病院ではストレスからくる「胃炎」と診断されたこともありました。薬を服用してもなかなかよくならず、そこの病院では最終的には「癌の疑い」までかけられ、恐怖のあまりその病院には通院できなくなりました。
こんな風に少しずつ、身体は私にサインを送ってきていたのに、身体のサインを無視していたのです。体調も悪く、上司の問題で何度も配属先を変えたいと思ったりもしたのですが、なかなか踏み切れず、先に同じ同期が違う部署へ配属されたりしている状況で、「私はまだここで踏ん張らないといけないんだ」と泣きながら仕事をしていました。
こうやって文章にしても、私はとにかく「がんばり過ぎている」もうその一言しかないです。自分の身体と心のサインを無視して、「自分ががんばらないと」「期待に応えないと」と無理して毎日過ごしていました。
私のストレスの解消法
その頃のストレスの解消法はなかったのか?って思う方もいますよね。「買い物中毒」。まさにこれでした。休みの日になると、とんでもない量の洋服を購入。仕事先で着れる訳ではないので、家にはタグの着いたままの新品の洋服がたくさん並んでいました。
あとは友達と「カラオケ」。ただただ仕事のことを忘れるために友人と騒ぐ。この時間は本当に今でも楽しかったなぁと思い出します。運動は元々好きではないので、身体を動かしてストレスを解消するということはなかったです。
実は1度発作が起きかけた
実は大きな発作が起きる前に、一度会社の帰りの電車の中で起きたのです。
急に胸の当たりが冷たくなってサーッと。座っていたのですが、じっとしていられたい感じがしてきました。すぐにあの大学生の時の記憶が鮮明に蘇ってきました。とっさに気分を変えるために音楽を聞いたりして忘れるために必死。運良く、降りる駅に着いたので、発作が起きる前に解放された訳です。
その頃は担当の方も多く、お陰様で契約を頂き仕事は激務。次の日に仕事を休むなんて考える余裕もなかった状態でした。今思えばこれも身体からの「限界だよ〜!」のサインだった訳ですね。でも当時の私は忙しすぎてそのことに目を向けることができなかったのです。
ついに大きな発作
そして、2年目の2月。ついに大きな発作が起きてしまうのです。
美容室の帰りに夜の地下鉄に乗っていた時に心臓がドキドキしてきて、息もしずらい。「あれ?」と思っていたら、いてもたってもいられない状態に。電車は空いていて、座っていても、最寄りの駅までは無理と判断した私。這いつくばって外へ出てタクシーで帰宅しました。タクシーの中はとにかくしんどくて1秒でもいいから早く家に着くことを願うことしかできませんでした。
タクシーの中もしんどかったので、横にならせてもらって携帯電話をいじってとにかく発作を忘れることに専念。あの時間は本当に地獄です。わかる方にはわかりますよね。あの恐怖の時間。
次の日、なんとか朝起きて会社に行こうと着替えて電車に乗ろうとしても駅の前で身体が拒絶。改札にすら行けなくなってしまったのです。そうです。私は、全く電車に乗れなくなってしまったのです。
それくらいひどい状態までなってしまいました。
仕事もすべて中途半端にしてしまってきたので、罪悪感でたまらなかったのですが、電車に乗ることができないのでこれは専門医に診てもらって診断書をもらわないといけない状況になってしまいました。
はじめての精神科。そして「パニック障害」の診断
やはり、精神科へ受診するということはとても抵抗がありました。むしろ、どこの心療内科に受診していいかわからないし情報がないとどうしていいかわからない時に、母の知り合いに相談して、知り合いが看護士として勤めていた「精神科」へ行くことにしました。
家からはかなり距離があるのですが、電車を乗ることができないので、タクシーで行きました。不安と罪悪感で押しつぶされそうになっていた私。
病状をお話したところ、病院の先生にさらっと「パニック障害ですね。」と診断されました。まだこの病気についてよく知らず、大学生時代の「自律神経失調症」だと思っていたのでびっくりしました。
安定剤と診断書を頂き、3ヶ月は会社を休職することになりました。診断から1週間くらいで休職までの流れになったと思います。一度も会社に行くことなく、先生に書類を書いて頂き、手続きを進めていきました。
病名がつくと楽になる場合もありますが、私はそこまで考える余裕がない状態でとにかく、仕事をすべて中途半端にしてしまったことへの罪悪感で本当に辛かったです。
職場の皆さんは心配してくださり、その優しさが余計に自分を責めてしまっていました。とにかく自分の状態を受け入れることさえもできない状態でした。
ここから私は「パニック障がい」というレッテルが貼られた人生を歩むことになります。